アメセルと恩師
出会いのタイミングってほんと大事
F年の先輩が卒業し、2ndテナーの座に就いたE年の春のある日、新大久保DACの闇商人(理由はのちほど)田代さんがやってきました。「石川君、いいブツが入ったんだけど店に遊びに来ない?」と。フランスセルマーの楽器に不満はなかったけど興味本位で行ってみた。
結果…もう後戻りできないわー!って感じでノックアウト。
今も使っているアメセルのテナーだけど、ノイズが凄い。いい意味でだけどサブトーンがかなり上の音まで続く感覚で、50年代のロリンズの音だわと思った。特に下から真ん中のレに移るとき、必ずボスッというノイズが入るのがお気に入り(オレオやドキシーの時の音ね)
2つ目は低音の鳴り。試奏室の壁(残響調節のため小さい穴が開いてるあれ)に向かって吹くと焦点が全く合わず脳震盪おこしそうな低音。ま、これは2年間吹いた楽器と調整したばかりの楽器の違いかもしれませんけど。
まんまと引っかかって、今まで使ってた楽器を下取りに買い替えてしまいました。思えば今までサックスに使った金額って今もってる楽器の合計額に等しいって気づいた、全部買った値段で引き取ってもらってるので。いい楽器を持っとくメリットですね、多分セルマー3本で90万いくかいかないかくらいです。
というわけで買い替えたのはアメリカセルマーのテナー、シリアル11万番代(後で調べたらほぼ自分の誕生日と同じかもしれないくらいの番号、運命の出会い)を今では考えられない48万で購入。新品のSA80が定価45万くらいの時代です。
あの頃って楽器店が客を選んでたんじゃないかと思う。今みたいにアメセルが店頭に何本も並んでるの見たことなかったし、いい楽器はだいたいプロのプレイヤーに流してたんじゃないかな?お陰で値段の高騰が抑えられてたんじゃないかと思うな。金を出せば買えてしまう今の時代は、なんでその音でそんないい楽器持ってるの?みたいなのにしょっちゅう会うし。
今となってはDACの田代さん、大感謝です、自分を選んでくれて。
ともあれニューオレの石川、アメセル買ったってよ!と、六大で噂になるくらい、まだ使ってる人いなかったな。
とにかく音がデカいことで評判になってたけど、ある人物に会ってまだまだと思い知らされました。
神楽坂にあったジャズ喫茶、「コーナーポケット」。酔狂座(のちに参加させてもらうのですが)というバンドを持っていたジャズボーカルの丸山繁雄さんがよく来てたので可愛がってもらってました。マスターの故・松浦さんが「おいお前、酔狂座の井上さんに会ってみろ!」と。井上さんというのは当時スイングジャーナル誌で松本英彦さん、峰さんに続く3位の座を何年も維持してた井上叔彦さん、酔狂座のメインソリスト。
E年の秋くらいだったかな? アケタの店に二人で出かけました。髭を蓄えてめちゃ威圧感のある風貌の井上さんがテナーを抱えて出した音、もうぶったまげました! 楽器が壊れそうなほどの爆音です。あんまり怖くてその日は声かけるどころか近づけませんでした(笑)
勇気を出して後日一人で話しかけることができたのですが、「とにかく楽器持って家に遊びに来なさい」と。印象と違いとても優しい人だったな。で、アポとって(午前中は練習のため一切電話も出ないって)横浜に。
半年ほど通った中で、アドリブがどうこうとか教えてもらったことは殆どないです。徹底的に音を良くするための呼吸法をひたすら教え込まれました。
後は、自分の楽器をなぜそういうセッティングにしているかとか(当時井上さんはリンクラバーの8星とバンドレン2番)、一番為になったのは、ツアー時の録音とか一緒に聞きながら、ここでこういうことがあってこういう展開、フレーズになったというのを細かく説明してもらったことかな? トッププロの考え方を聞けたのは、貴重な体験だった。
西荻窪に住んでいたので、アケタの店でライブがあるときはいつも呼んでくれて「これ、俺のボーヤだから」といい、いつもタダで聞かせてもらってた。ご存じの通りギャラがコインの時もあるくらい客が入らない店だったので、ボーヤなんて雇えるわけないです(笑)
一切謝礼を受けとってくれないので、あのころはまだそれなりに採れてた広島世羅のマツタケ送った。
薄いリードをフルで鳴らし、おなかで支える筋肉ができてきたら、マウスピースの開きがどうにも狭すぎて詰まるようになってきたので、リンクメタルの9番に変えた(今は10と併用)今出してる音色、この時決まったと思います。
これで今と同じ組み合わせになったわけです。アメセルテナー6とバンドレンの2番のリード、リンクの9番。
いよいよ武器はそろったので、あとは8月のヤマノに突入です!
0コメント